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過去の遺物との決別

引越に伴い、これまで溜め込んだものを処分している。
整理しはじめた時には捨てるつもりだったのに、整理しているうちに名残惜しくなって捨てる勢いが衰えていく。
学生時代の資料、レポートや答案用紙、捨てるつもりだったのに、過去の自分が意外と良いことを書いていたりすると、その一段落のためだけに全部が捨てられなくなる。
稚拙な文章ではあるが(まあ、今も稚拙ではあるが)、その段落をここに引用して捨てる覚悟を決める事にする。
生化学と生命科学を書き分けているのに気をつけないと読みにくいかも。
ある試験の答案用紙より引用
生命とはある化学反応によりなりたっているただの試験管みたいな物なのかもしれない。しかし、その試験管はみずからをいじするために活動する。その活動は生化学的な反応により成り立ち、生体外では極限状態でしかありえない反応を酵素を用いて行う事もある。生化学を理解するという事は、自分自身の中で「何が」、「何のために」おこっているかを知り、それが自身にまわりにどう影響するのかを知る事ができる。生命科学の広義に哲学があるがその哲学的な考え方にも影響があるだろう。我々はただの試験管か、そうではなく、生きている命、「生命」として考えるのか?生命とは何か?生化学を理解していく事で生体がただの「利己的な反応系」であるとなれば全ての生命科学的分野への影響は、多大である。実際、文系・理系分けへだてなく、ある程度の事は理解しておく必要があると思う。
(誤字脱字は当時のまま)
リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」の影響を受けているのがよくわかる。まあ読んだ事はないのだけども、この本の影響を受けた文章や番組から二次的な影響を受けているがはっきりわかる。
「利己的な反応系」という用語は自分の造語だと記憶しているが定かではない。
しかし、「維持」ぐらいは漢字で書けよな、過去の自分。

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