« JavaScriptでRubyのMixInみたいな事を実現する | メイン | @new_harizonの喋る言語「Yharian」について »

私にとっての過渡期 - 「ウェブ時代をゆく」を読んで

今更ながら梅田望夫氏の「ウェブ時代をゆく」を読んで思った事を書く。
大前提として、社会的地位や経済的金銭的については言及していないことを断っておく。名誉でもない。あくまで単純に人間として高みを目指したい、技術者としてどう生きるのかということを念頭に読んで頂きたい。
若者が年配の人を見た時に羨むのは経験である。逆に年配の人が若者を見た時に羨むのは余りある時間である。
両者はトレードオフの関係にある。年配者はこれまでに時間をかけ経験を積み、そこで得た社会的地位等の立ち位置で、日々の時間の消費配分が決まってしまう。
若者には経験がないが未来がある。また、立場に影響しない可処分時間がある。この時間を使って若者は経験を培っていくのである。
蓄積された経験があるのと、豊富な時間があるのとではどちらが有利なのだろうか。これは単純には言い切れない。時間を有効に利用して得た経験であれば当然経験が勝る。時間を無駄に浪費してきたのであれば、余命が長い方が良い。梅田望夫氏も説いている通り、時間は人間に平等に与えられた唯一無二の資産なのだから。
しかし、これには無視できない前提がある。若者も年配者も同一時代で生き抜く場合はその通りである。
では、今現在はどのような時代か。このBlogを読んでいる人には言うまでもないが、いわゆる「こちら」側のこれまでの価値観の時代と、「あちら」側を主とするこれからの価値観を持つウェブ時代、この二つの時代の過渡期にあたる。人によって認識は違っていると思うが、私は初期から中期に差し掛かっているような段階と考えている。
ここからは私個人の考えを展開する。
私は団塊ジュニア世代である。私にとって今の時代というのはどのような時代なのか。私と同世代の人間はどのような立場に置かれているのだろうか。
私は「廃校の決まった高校の最後の新入生」と思っている。あと数年でなくなってしまうような場所の最後の人間、部活でがんばろうにも団体競技は部員不足で大会にも参加させてもらえない。どれだけがんばろうが上級生には経験上太刀打ちできない(もちろん実社会であれば年齢を大きく飛び越えて上を目指す事も可能ではあるが、何十年も飛び越せる事は稀だ。人生を高校三年間に圧縮して考えた場合、ひとつ上の学年に追いつくのもやっとであろう。)。
では他の高校はどうか。「新設された高校」はどうなのだろうか。初めての新入生は在学中は(教諭を除いて)ずっと最年長である。人間関係も模索の連続だし、学校の雰囲気も自分達次第である。伝統はないが自分たちで作っていく事ができる。部活にも決められた規則がない。高校生という狭い視野や価値観では、全てが未知数である。不安もあるが将来があり未来がある。
「廃校の決まった高校の最後の新入生」である私はどうすべきか。先輩への恩義もある。義理もある。高校とのしがらみもある。居心地の良い雰囲気もある。しかし未来がない。転校するのも煩わしい。しかし転校するには今がチャンスである。「新設された高校」の最初の新入生は、まだ人間関係の模索中である。今なら伝統の構築にも参加できる。来年、いや一学期が終る頃には人間関係が構築されてしまっている可能性がある。もしかすると仲間意識が強くてしばらくの間は疎外感を感じてしまうかもしれない。「廃校の決まった高校」の中で一緒に転校してくれる同級生を見つけるべきか。同級生は皆、学外が見えていないので転校なんて全く考えていない。同級生の目を学外に向かせようとしても全くもって無関心である。やっと見つかった頃には二年生になっているかもしれない。その時には伝統の構築がほとんど終ってしまっている可能性もある。じゃあ同級生を見捨てるのか。強引にでも今すぐ一人で転校すべきなのだろうか。
「廃校の決まった高校」の最後の学生となるのか、「新設された高校」の最初の学生となるのか。私はどうすべきなのだろう。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanasansoft.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/76

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

Google